Go Down Gamblin' ver.6

私taipaが趣味の世界からお送りします

おカネの使い方は生き方の問題

昨日7月12日の朝、まだ雨は降っていなかった。風もないので、意を決して着替え外に出る。前日は休日ルーティーンだったので、この日は普段の平日モードで公園遊歩道のランニングである。

前の晩はよく眠れなかった。熱帯夜でなかったせいで、かえって冷房が効かなかったからである。室温が下がるのと湿度が下がるのはセットなので(ポリテクで習った)、外気温が低いと室温も湿度も下がらない。結果寝苦しくなる。

いつもどおり標高42mの築山に登り、中腹で準備運動。少し離れた1周400mの遊歩道まで歩く。実はこの公園、通りをはさんでいまは一体化しているが、築山は合併前の旧・印西市、遊歩道は旧・本埜村が作ったものである。だからトイレも遊具も別々にある。

湿度も高くやや寝不足でもあり、走ると息が詰まる。汗の出方も半端なく、10周・4km走ると結構きつい。走り終わる頃になって、ようやく涼しい風が吹いてきた。

 

昨日の続きでおカネの使い方の話。禅宗の坊さんが言うことには、不要不急でない支出はよくよく考えるべきであるというが、収入の限られた年金生活者は、必要不可欠な支出の中でも優先順位をつけなければならない。不要不急の中にも「今現在モノがない」から「ないとストレスになる」まで程度の差があるところまで書いた。

食品についても同様で、原材料とか添加物とかそういったことがストレスになっているだけで、安全性そのものが問題となる食品は比較的少ない。TVやマスコミが余計なことを言わなければ、安い肉、安い牛乳、安いパンでも生命維持には問題ない。

けれど実際には、パスコのパンは気持ち悪くて食べられないし、安い牛乳はおいしくない。大量生産の卵は平飼いとは味が違うし、冷蔵庫で保存するからといって保存料が山ほど入った発酵食品は食べたくない。食べても害がないのと、あえて食べるかどうかはまた別の問題なのである。

本当におカネがなければ贅沢は言えないのに、なぜそんなことを気にするのか。思うに、おカネの使い方には経済的な意味だけでなく社会的な意味があって、経済的な意味、つまり損得だけで判断するのではないからではないだろうか。

 

収入が限られる年金生活者は、必要不可欠と思われるものの中で優先順位付けしなければならない。そして、添加物その他の食品安全性の問題は、損得とは別の問題である。

 

おカネ・貨幣というのはあくまで交換を便利にするための手段であり、突き詰めると自分の持っている時間と労力、資源を何に使うかということである。何を優先するかは生き方の問題であり、自分が何に価値を認めるかである。大げさな言い方をすれば、損得より社会正義ということである。

社会正義の実現というとちょっと引く表現だが、自分が退場した後の世界はその前よりも住みよい社会であってほしい。少なくとも、自分が生きたことで住みづらくなっては申し訳ないという心がけである。ある意味、選挙権の行使と似た要素があるかもしれない。

原子力とか環境保護少子化、過密・過疎などなど社会のあるべき姿・進むべき方向を自分はどう考えるか。そのために自分の時間と資源をどう使うのか。おカネの使い方は、実はそことつながっているように思う。

だから、売ってはいけないものを売る会社の商品は買わない、環境保護が大事だと思えば環境に配慮した商品を選ぶのは、損得勘定とは次元の違うような気がする。必要不可欠とは、単に空腹を満たすとか、生活に必要かどうかだけで判断できるものではない。

 

もちろん、「自分の時間・資源」は人それぞれのものだから、いろんな考え方があるだろうし、経済的観点、損得勘定が最優先の人がいるのも当然である。誰と比べることもできないし、平均して二千万円とかそういう話でもない。とはいえ、全員そうやって生きることはない。

少なくとも私は、経済的視点だけが重要とも大切とも思わない。健康でいられることの優先順位は損得勘定とは別次元だと思っているし、おカネはよりよい社会とするような方向で使いたいと思っている。

 

p.s.これまでFC2で連載してきましたが、運用が不安定などいろいろ問題がありますので、はてなブログに移行します。お手数ですが、ブックマークの変更をお願いします。

p.s.その2 老後準備編、バックナンバーはこちら

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