Go Down Gamblin' ver.6

私taipaが趣味の世界からお送りします

藤田一照・伊藤比呂美「禅の教室」

8月11日朝、休日なので公園は行かず2kmロードコース。いつもの大きな公園まで行かなかったが、近くの小さな公園もすでにゴミだらけ。連休だから若いのが宴会したらしい。大きな公園も推して知るべしである。

「鬼神は敬して之を遠ざく」とも「君子危うきに近寄らず」とも言う。老い先短い身で、下らない連中のために気分をいらただせたりストレスを抱えて時間を使うのはもったいない。自分の家を汚部屋やゴミ屋敷にする人間に関わっている暇はないし、社会なんてその程度のもの。私には権利もないし義務もない。

途中経過で秋並みの好タイムだったが、後半バテて8kmは3日前より20秒改善しただけ。それでも、薬の影響からは着実に復活できているようでうれしい。

 

お盆だからという訳ではないが、仏教について。そもそも葬式や法事は仏教とあまり関係ないと思っているけれど、この本の著者もそう考えているようである。

藤田一照師は曹洞宗の僧侶であるが、寺の二代目ではなく宗派の本部にいる訳でもない。長年、米マサチューセッツ州で、禅の普及活動に携わってきた人物である。

曹洞宗の禅堂だから永平寺総持寺から経費が出てやっていると思いがちだが、そうではない。いろいろアルバイトをして生活費を工面し、禅に興味をもったアメリカの人達と、勉強会のような形で普及活動を行ってきたという。

 

対談相手の吉田さんが「仏教の本ってなぜ仲間内の言葉ばかり使って、自分達だけ分かろうとするんだろう」と疑問を持っているので、一照禅師も誤解を恐れず分かりやすく説明しています。なぜいま仏教に元気がないかヒントになる本でした。

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もともと禅や仏教になじみのないアメリカの人達に教えてきたから、一照師の教えはわかりやすいし納得できる。禅はテクニックではなくポエットであるというのもその一つで、結跏趺坐とか半眼とか公案とかは禅の本質ではないという。

ところが実際には、ほぼすべての禅寺は「形」から入るから、テクニック重視になる。入山作法から一日の生活から座禅まで、実はそれぞれ意味があるにもかかわらず、まず「形」である。昔からそうやってきた、うちの寺ではこうしているといってやり方を押し付けるのが普通である。

そういう話を聞くと、わが国仏教低迷の理由の一端が分かったように思う。一言でいうと、寺が体育会系になっているのである。先輩の言うことは絶対、頭で考えず体で覚えろ、嫌ならやめろ。すべて体育会系の発想である。

ただ、禅宗の場合でいうと、曹洞宗を始めた道元からして体育会系の考え方である。だから道元自身に弟子は数人しかいないし、後援者がいたので永平寺はできたものの全国に信徒がいた訳でもない。

著者の一照師はアメリカ人にも分からせなければならないという必要性があるから、素人にも分かりやすく説明するけれども、道元は出家者だけ、男だけ、自分に付いて来られる者だけ分かればいいと思うから、正法眼蔵は分かりにくいのだ。

 

お釈迦様が仏教を始めたのは、現世の四苦八苦から逃れるためにどうしたらいいかと思ったからで、それはきわめて個人的属人的動機である。

そのひとつの答えが、本書でも触れられている「貧乏を苦にするのは自分の頭が貧乏を作り出すからである」ということであろう。頭(脳)が苦しいと思っていることがすべて、体も苦しい訳ではない。

体が苦しいと思うのは水の中で呼吸ができなかったり、狭い場所に大勢詰め込まれて新鮮な空気がないことであり、それが本来の苦しさである。貧乏も自分が認められないことも、空気がないのと違って生きるのに直接の影響はない。

私も、これまで生きてきたよりずっと短い期間しか生きることはない。頭の中で作り出した幻想のために苦しむことがあるとすれば、それは避けられる苦しみであろう。少なくとも、寒かったり狭かったり、腹が減ったりして苦しいことは、いまの世の中ほとんどない。

 

p.s. 書評過去記事のまとめページこちら。1970年代少女マンガの記事もあります。

 

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