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チャールズ・サイフェ「異端の数 ゼロ」

著者は「エコノミスト」「サイエンティフィック・アメリカン」等で執筆するサイエンスライター。もちろんキリスト教徒なのだろうが、数学の発展に宗教がマイナスの影響を与えたことはきちんと指摘している。

「0」という概念はアラビア発祥ということは以前から知っていた。ヨーロッパ世界が「0」を知らなかったのは、指で数えられるのが1、2、3、…だからだというのは大きな間違いで、ギリシアの時代から0という概念そのものはあったというのが本書の指摘である。

ではなぜ、西暦1000年以降まで「0」なしできたのかというと(西暦0年はない)、0と無限は神(造物主)を冒涜する考えであるとして、異端とみなされたからである。キリスト教もそうだし、それ以前もそうだった。ピタゴラスアリストテレスは0について思索する弟子を迫害した。

だから「0」がないのは、ルネッサンスに至るまで地動説を疑うことが許されず、いまだにアメリカの一部の学校で進化論を教えないのと同じことであった。ギリシア人はピタゴラスの定理を定規なしでどうやって見つけたかと思うが、定規の起点が何なのか考えると破門されたり殺されるのだから仕方がない。

それを考えるとギリシアの数学者は気の毒である。彼らは1より小さい数を分数で表わしたが、3分の1で早くも割り切れない。割り切れなければ無限に3が続く小数となるべきところ、3つに分割したうちの1つで思考停止したのである。「無限に続く」は異端だからである。

ピタゴラスの定理は本来、平方根を使わないと理解できないはずだが(直角二等辺三角形の長辺はルート2)、ここも思考停止した。無限に続く小数どころか、分数を使っても正確な長さは出ない。

虚数超越数はともかく、数学を研究する上で循環小数無理数といった概念を避けては通れないが、それは神を冒涜すると言われたらどうしようもない。真理を追究しようとすれば神(教会)に邪魔されるのは、ルネッサンスより千年以上前からそうだったのである。

いまや、「0」を使わなければ相対性理論量子力学も説明できない。天文学も宇宙の理論も同様である。定規の起点が0でないといけないのは小学生にも分かる。しかし、西暦0年がないと理論的におかしいから0年を作ろうという人はいないし、アナログ時計のいちばん上が「12」であることを不思議だと思う人もあまりいない。

その意味では、キリスト教世界がここ二千年間において科学の最先端であったのは、よかったことばかりではないのかもしれない。

 


p.s. 書評過去記事のまとめページこちら。1970年代少女マンガの記事もあります。

 

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