Go Down Gamblin' ver.6

私taipaが趣味の世界からお送りします

悪くない生活みたいに思える

昨年一年の生活を振り返って、山の前・後泊も泊りがけの旅行もできなかったと先週書いた。

現役時代は年に何度か海外旅行に行き、家族で泊りがけの旅行もし、出張前後の空き時間を利用して地方のいろいろな場所に行った。それを考えると、やりくりに四苦八苦して遠出することもできない年金生活は厳しい。

奥さんは「だったら働けばいいじゃない」と言うのだが、働くことは誰かのカネ儲けの手伝いをするのと一緒だし、ストレスで心身をおかしくするリスクは大きい。加えて、悪事に加担したりいい加減な仕事をして(サウナルームみたいに)関係ない他人に迷惑をかける可能性さえある。

海辺のカフカでナカタさんが、「頭が悪いので働き口がなく、アパートの小さな部屋に住んでいます。知事さんからホジョがあって、一日に三度ごはんも食べております」と聞いた野良猫のオオツカさんが、「そんなに悪くない生活みたいに…オレには思えるけどね」と感想を述べる場面がある。

夫婦2人なら部屋が余る家に住んで、寒ければ暖房暑ければ冷房が使えて、一日に三食食べられて、毎日お風呂に入れて、季節がよければ山に行き、ときどきマラソン大会に出られるいまの暮らしは、オオツカさんからすると悪くないどころじゃないだろう。

 

猫といえば、「吾輩は猫である」に出てくる迷亭氏や寒月君は明治時代の高等遊民で、どうやら働いていないようだ。実業家になればカネなんていくらでも稼げると言われても関心を持たない。研究をしたり演奏会をしたり、苦沙弥先生のところで暇つぶしするだけである。

漱石の、特に猫を読んで感じるのは、学問は実利や立身出世のためにするものではないということである。明治時代の旧武士階級という点で共通の福澤諭吉は、どうやらそう思っていたフシがある。それは現代の学問に対する姿勢に受け継がれているのだが、どうなのだろうか。

猫の登場人物のひとりに、鈴木藤十郎という男がいる。苦沙弥先生の学生時代の友達なのだが、先生の不倶戴天の敵・鼻の金田の手先でもある。友人連中では珍しく実業家になり、「街鉄の株なら数十株持ってる」そうである。

この鈴木氏を他の登場人物はあまりよく思っていないような書きぶりである。少なくとも、小説を読む限りそう感じられる。つまり漱石自身が、学問をカネ儲けに利用するような連中をよく思っていないということである。

夏目漱石がそう思っていたからすべて正しい訳ではないが、カネ儲けしか頭にない連中は志が低いと思う。カネ儲けしか頭にないJリーグが、地方自治体に志が低いと言って物議を醸しているが、志が低いのはどう考えてもJリーグである。

それはそれとして、漱石の描く明治の高等遊民の生活といまの私は、かなり似たところがある。生活するためにはおカネが必要だが、生活に必要のないカネを無理して稼ぐ必要はない。オオツカさんからみて悪くない生活ならば、無理してストレスを増やすことはない。

 

p.s. 老後準備編、バックナンバーはこちら

 

オオツカさんは中野区に住む野良の黒猫であるが、猫と話ができるナカタさんに話しかけられる。名前はないので、オオツカさんと呼ばれてしまう。